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マラッカ王国の繁栄と衰退

マラッカ王国の反映は14世紀にはじまる。
また、現在の立憲君主国マレ−シアの君主であるサルタン(王)も、はマラッカ王国に由来し、現在のマレーシアの原点ともいえる国家である。
当時マラッカ海峡地域は、世界有数の貿易中継地点として栄え、中国、琉球、インド、ペルシア、アラビアなどの商船が集まり、「80の言語が話される」国際都市で、マラッカに定住する外国人商人も多くなっていった。
マラッカ王国は東南アジアにおけるイスラムの中心地となり、また現在のマレーシアの他民族国家もこの頃形成されたといえるだる。

1510年にポルトガルは貿易を求めて使節団を送ったが、カトリック教徒を嫌ったマラッカ王国は彼らを虐殺した。当時インドのゴアに基地を設けていたポルトガルはゴアより兵を送り、2ヶ月の戦いの末、マラッカはポルトガルの手に堕ちた。ポルトガルによるマラッカ占領は、以後ヨーロッパによるアジア植民地化の起点となった。
しかしポルトガルによるマラッカ支配は、宗教的対立により長くは続かなかった。 一方、ジョホ−ルに逃れた旧マラッカ王国の巻き返しもあり、ポルトガル、オランダ、イギリスによるマラッカ争奪戦になったり、 1795年にイギリスがオランダから奪った。

イギリス植民地時代

18世紀末、インドを植民地化していたイギリスは、インド、中国間の貿易の中継地点を確保するため東南アジアへ進出し、19世紀末までにペナン、マラッカ、シンガポールを海峡植民地とし、またマレーシア全土を植民地化していき、イギリス領マラヤとなった。。

イギリスの植民地支配の目的は マレー半島から産出するスズとゴムであった。イギリスは、植民地開発に際し、アマゾンから天然ゴムの苗木をシンガポールに送り植林、ゴムのプランテーションの開発とスズ鉱山の発掘に取り組んだ。その労働力確保のために、インド・中国から大量に労働者が送り込まれ、現在の複合民族社会の形成の始まりとなった。また20世紀初頭にはジャワ人農民もマレー半島に移住してきた。

19世紀後半は、ボルネオ島でもイギリスの影響力が拡大した。 イギリス人のジェームス・ブルックスはサラワクの反乱鎮圧に貢献し、ブルネイ王から
"White Raja(白人王)”に任命され、統治を任された。


日本占領時代
1941年12月、真珠湾攻撃と時を同じくして日本軍がコタ・バルに上陸した。 そしてマレー沖のイギリス東洋艦隊に攻撃し、イギリスが誇る世界最新鋭の戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスの2隻は、日本海軍による爆撃で撃沈した。

150年以上におよぶイギリスの植民地支配に苦しめられていたマレー人は、日本軍を歓迎し、食糧を提供したり、ジャングルのガイドしたりなど日本軍に協力した。そして日本軍は60日間の激戦の末、イギリス軍アジア最大の要塞、シンガポールを占領し、150年におよんだイギリスのマレー支配終わった。

日本軍は協力的なマレー人を優遇し、マレー人青年の育成に尽力し、 西欧人専用だったクラブなどを開放した。それによってマレー人、インド系移民たちの白人コンプレックスを取り除き、民族意識を高めたといわれている。一方、占領前から中国にと交戦中だった日本軍は、中国系移民たちに対して不信感をもち、彼らを冷遇、虐待した。そのため彼らはイギリスに協力して抗日ゲリラ活動を行った。また日本軍は食料や物資の不足という深刻な状況に陥らせ、占領民の生活は窮乏した。



独立から現在まで
日本の敗戦後、再びイギリス占領下となり、再び植民地化に乗り出すが、独立のための民族運動が盛んになった。イギリスはイギリス領マラヤとして「マラヤ連合」案を提案するものの、これに反対するマレー人たちによって独立運動が活発になったため、その後イギリスによって「マラヤ連邦」案が出され、マラヤ、ペナン、マラッカによるマラヤ連邦となり、1957年に独立国となった。

その後、シンガポール、サバ、サラワクも加わったが、マレー人優遇政策に不満をもつ、華人人口が多いシンガポールは1965年に分離独立した。




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